2016年6月19日 礼拝メッセージ
人生を生きる愛の回路 ピリピ1:18~28
私たちは、人に喜ばれることを第一にしないで、
神様に喜ばれることを第一にする者です。
何か、冷たい言葉のように聞こえるかも知れませんが、神様に喜ばれることを第一にするならば、人に喜ばれる最高のプレゼントを差し上げることができるからです。
ここでいう、プレゼントはデパートで素敵なものをプレゼントするというレベルのものではではありません。
「霊的なプレゼント」のことを言っています。
私たちは、常に「新しい霊的次元」が分かることを求めたいと思います。
「発見する」と言っても良いでしょう。
「御言葉の発見」です。
Ⅱコリント3:17、18
17、主は御霊です。そして、主の御霊があるところには自由があります。
18、私たちはみな、顔のおおいを取り除かれて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。
御霊とは聖霊様のことです。
私たちの姿は聖霊様によって、同じ形に自分の姿が変えられて行く。と書かれています。素晴らしいことばです。
愛のプレゼントは、まず自分が聖霊様と歩みをする中で見えて来ます。
この御言葉にあるように、聖霊様によって変えられるからです。
ピリピ1:18~28
18、すると、どういうことになりますか。つまり、見せかけであろうとも、真実であろうとも、あらゆる仕方で、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます。そうです。今からも喜ぶでことでしょう。
19、というわけは、あなたがたの祈りとイエス・キリストの御霊の助けによって、このことが私の救いとなることを私は知っているからです。
20、それと、どういうばあいでも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストの素晴らしさが現されることを求める私の切なる願いと望みにかなっているのですから。
21、私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。
パウロは、ここで「生きることと死ぬこと」の意味を伝えています。
この御言葉はすごいことですよ!
人は、この世に生を受け、人生と云う歩みの中で、個々人さまざまな体験をしながら、時に苦しい試練を通されながら歩んで来ました。私も例外ではありません。
人生を生きることは大変ですよ。
しかし、パウロは「生きることはキリスト、死ぬことも益」だと語っています。
どうしてこのようなことばを語ることが出来るのでしょうか。
この御言葉にも深い意味が隠されています。聖書の中でパウロの人生が表舞台に立ったのは、クリスチャンを迫害した人物だったことから始まります。そのパウロが福音を語る者に変えられ、伝道者として殉教していくという人生は、全てイエス・キリストのいのちを生きる。顔と顔を合わせながら生きたそれゆえの結論です。
私は、イエス・キリストと顔と顔を合わせて生きる世界を求めてやみません。
私が天に上げられる時にではなく、地上で生きてい間に顔と顔を合わせたいと熱望しています。
まさに「キリスト者の真骨頂」の領域です。
反論があるかも知れません。「パウロだから言えたのだ。」「私とは次元の違う」
クリスチャンにとって、生きること、死ぬことの意味を尋ね求める人生です。
私たちは、平塚で15年間、認知症の老人が、畳で死ぬことが出来るようにデイケア、ナイトケアの働きをしてきました。教会の働きです。私の若い時代でした。29歳の時に、老人病院のケースワーカーの働きをしていました。しかし、病院に来られる病人はあっと云う間に廃人になっていきました。薬漬け、点滴漬け、検査漬けであれよ、あれよと生きた顔から死人のような顔つきになっていきました。入院して1週間で歩いて来た方が、寝たきりになる。私はこういう医療現場、このような医療の在り方に絶対的に反対し警告をしました。そして、ある日、院長と事務長に呼ばれて、給料1万カットの宣告を受けました。私はにこにこして結構ですと返事し、またある日、5千円カットを宣告され、またある日に呼ばれて、1万円カット。私を辞めさせたかったのです。うるさい存在ですからね。しかし、京子先生が陰で働いてくれました。また、内職もしました。病院から帰ってくると内職をはじめます。子どもたちも手伝ってくれました。「家族総動員の戦い」が始まりました。内職の完成品はリヤカーで運びました。リヤカーの前に二人の子どもたちがいて、おにぎりを持って、私が前を、京子先生が後ろで押しました。子どもたちは多くに人々の前で、何か王様のような気分だったのでしょうか。ですから、幾ら給料カットをされても、屈することはありませんでした。
1年後に、自らが描く老人の施設を建設する具体的なあり方を目的が分かりまししたので、退職し、脊椎矯正の学校へ行き医学を学び、やがて老人のデイケアの働きに着手していったのです。多くの苦労がありました。当時、デイケアと云う言葉がない時代でしたのでお迎えに行って、駐車違反を取られたりしましたが、次第に知れ渡るようになって、新聞にテレビに出ることも多くなっていきました。認知症の両親を支えるための援助をしていきました。また、認知症は直らないと云う概念を外しました。出来るのですよ。直らないという世間との戦いでもありました。この働きをしながら、教会も初めていました。
認知症の老人が活動を開始するのは夜なのです。職員に夜中働いてもらう経済はありませんでしたので、私たちがやっていました。4時間眠れると感謝で、3時間くらいが平均の毎日を15年間していました。
私たちは、教会と施設と整体治療の3つをこなしていました。整体の働きは、職員の給料とボーナスの確保をしていくものでした。朝早く初めて、夜9時まで、ほぼ休みなく働きました。整体の働きが基本的収入源でした。その生活は喜びで満ちていました。食べるものがない時、主は不思議を見せて下さいました。ある日の朝、玄関の前に白菜が山のように置いていました。びっくりですよ。それからの1週間、白菜の漬物、白菜ご飯、白菜味噌汁、白菜炒めと全て白菜漬け、感謝でしたね~。でも、どなたが置いて下さったのか全く分かりませんでした。ある時は、お米、不思議でしょう。神様が生き延びて行けるようにして下さっていました。
そういう生活の中で、気付かされたことがありました。人間の死は医者が死亡診断書で終わりではない。その後があって、そこが最も重要であると云うことです。神は愛である。その通りです。『生きることはキリスト、死ぬことは益。』聖霊様は私たちの生活の全てにおいて、こと細かに用意して下さいました。どんなことが起きても神様が第一。次も神様第一、次も、次も、神様第一。これ以外に生きることはありませんでした。経済的には、整体の外来のみなさんが助けて下さいました。献金の箱には沢山の献金が与えられました。また、私が尊敬してやまない教会から心身共に大きな助けを頂きました。
エペソ4:15、16
15、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる天において成長し、かしらなるキリストに達することが出来るためなのです。
16、キリストによって、体全体は、一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、
結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。 アーメン
15節で、「愛をもって真理を語り」
神様は愛です。その神様を語る時には、謙遜で誠実であることが求められますが、その源は愛です。
御言葉は神様のことばです。愛を持って真理を語る者にされたいです。
16節には、「その力量にふさわしく」とあります。
パウロが語っている意味は、「誰しもみな力を持っているけれど、その賜物は、一人ひとり違うのですよ。」「心配しなくていいのですよ。」「あなたにふさわしい力があるのですよ。」大きい、小さいではなく、イエス・キリストに目を留めることをやめないことが重要ですよ。沢山のピースがあって、神様のピースが順番に当てはめられていきます。「しっかり組あわされ、結び合わさされて成長していく。」これが私たちの生きる基本です。
ゼカリヤ4:6
6、『権力によらず、能力によらず、私の霊によって』と万軍の主は仰せられる。
イエス様はいつも祝福を持って歩いています。
教会は「神の国文化」です。
21節でパウロは、私にとって生きるとはキリスト、死ぬことも益である。と語っています。
クリスチャンとして生きること、死ぬことの意味を文字通り生きる者になることを感謝しましょう。
当時のギリシャ人は「生きることは快楽、死ぬことはすべてをうしなうこと。」と考えていました。
ローマ人は「生きることは権力であり、死ぬことは一切の終わりである。」と理解されていました。
パウロの人生観は「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことは益である。」と告白し、宣言しました。
まず、基本的に「クリスチャンはどういう存在なのでしょうか。」
第一次世界大戦が終わった時に、イギリスのYMCAが、若い青年たちに、ヨーロッパの人たち、に「呼びかけて、世界の平和はキリストにある。」というテーマでスイスのジュネーブで会議を開催されました。
その中で各国から選ばれた議長団が「キリスト者とは何か」と云う内容を各国の指導者に質問しました。
イギリスの代表は、「クリチャンとはイエス様を信じ救われた者」と語りました。
次に、フランスは「クリスチャンとはキリストに従うこと」と語りました。
オーストラリアの代表は「キリストを主とあがめること」と語りました。
これらの発言はみな正しい答えです。
パウロはどうだったでしょか。
パウロの語った御言葉から四つのことを発見することが出来ます。
第一番目、最もパウロが強調した言葉は、「クリスチャンとはキリストにあってキリストのうちにあること」です。
Ⅱコリント5:17
17、誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去った。見よ。すべては新しくなりました。
「キリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者である。」
「クリスチャンは『キリストにあって、生き、生かされている者である。』
第二番目、「クリスチャンとはキリストが私のうちに宿っている」と語ります。
Ⅰコリント3:16
16、あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたに宿っておられるのを知らないのですか。
第三番目、「クリスチャンとはキリストにあって造られた者である。
エペソ2:10
10、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いもあらかじめ備えて下さったのです。
第四番目、クリスチャンとは、「キリストと共に」にあることである。
エペソ2:4、5
4、しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
5、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストと共に生かし、あなたがたが救われたのは、ただ、恵みによるのです。
「キリストと共に生かされ、キリスト共に葬られ、キリストと共によみがえり、そして、キリストと共に天に上げられた者」なのです。
「共に」と云う言葉は、いつも一緒と云う意味ではなく、キリストと合体し、キリストによって起きたことは、同時に、私にも起きている。キリストが十字架につけられたなら、私も同時に十字架に付けられた。キリストがよみがえったなら、私も同時によみがえった」と云う意味です。
ピリピ1:20
20、それは、私がどういう場合にも恥じることがなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストの素晴らしさが現わされることを求める私の切な願いと望みにかなっているからです。
愛するみなさん
パウロは生きることは即キリストでありました。
私の全存在はキリストである。
キリストだけである。
キリストはすべてのすべてである。
20節を良く読みますと、「キリストの素晴らしさが現れることを求める」
と書かれてありますね。
カナダにメアリー・ブラウンと云う預言者が日本に来られました。ご夫妻でこられました。夫婦で預言の働きをされています。夫のブラウン先生は、私は妻の預言の賜物は持っていませんが、妻は正真正銘の預言者です。と話されていました。
メアリー先生は、京子先生に「私は、あなたの中に生きています。あなたは私の胸にいます。あなたに父の目を与えます、私はあなたに、私の心を、あなたを通して現します。この世の終わりにあってあなたを満たします。そして、あなたを「収穫する者」になると宣言します。
先生ご夫妻は、自分の息子さんが、両手両足を縛られ、重しを付けられて湖に投げ込まれました。殺されたのです。
親にとってどれ程の心痛め、どれ程に苦しい時であったでしょうか。
先生が苦しんでいた時に、聖霊様が語られました。
「あなたがいつも語ってきたことばは何でしたか」という問いかけでした。それは『赦し』でした。先生は考え込んで、赦しますと答えました。先生ご夫妻の心はそれで解決したわけではありません。
人間ですから、体を震わせて泣きました。泣いて、泣いて、何時間も泣き続けました。そして、「赦します」でも、私の力では出来ません。助けてください。
その時に、聖霊様が、超自然的な力で働いてくださいました。立ち上がった時に、先生ご夫妻の胸の苦しみは取り去れました。もちろん人間ですから、息子が殺されて悲しくない、全て忘れると云うことではありませんが、重~い、重~い苦しみは取り去られました。
それから10日程して、メアリー先生がソファーに座っていると、イエス様が現れ、「小さな娘よ。」と三回呼びかけられました。『私の臨在の中に人々が来るように伝えなさい。』と言われて、イエス様が消えました。
それから先生ご夫妻は、刑務所の中にいる5人の男たちに手紙を書きました。「息子は殺されましたが、あなたを赦します。」
すごい証しです。
会衆は息をひそめ、静かになり、先生の証しを聞きました。
先程、スイスのジュネーブで会議が開かれた時に、最後にドイツの青年が語りました。戦争に負けて、小さくなっていた青年が語りました。
「クリスチャンとはキリストがいなくは一瞬たりとも生きることが出来ない者である。」と語りました。
一瞬シーンとなって、どこからか拍手が出てきて、全会衆が割れんばかりの拍手で満ちたと言われています。
20節に「いつものように今」と云うことばがありますね。
私たちが、毎日の日常生活で、教会の中での自分と全く同じであることをパウロはこのように表現で語っていることに注目したいと思います。
自分を見つめること。
自分を検証しながらの毎日が「キリストなくして一瞬たりとも生きることが出来ない者であると、ドイツの青年が語ったように生きる」その生きる姿が人生になってゆきます。
信仰を通して、イエス様の栄光が現される。そういう存在になることを求めていきましょう。
しかし、そんなことが出来るはずがない。そう云う思いがどこからか忍びこんで来ます。それが悪霊どもなのです。
クリスチャンの生きる姿を求める、そういう目標に向かって生きる。それがイエス様の身丈に近づくことだと言えます。
今年の1月に、ビル・ジョンソン聖会がありました。
ビル・ジョンソン先生は語りました。
イエス様はいつも喜んでいます。輝いています。人生に問題があるならば、神様が守ってくださいます。希望を持ってください。
感謝と祝福は『深い悔い改め』が出発点です。
「神の国文化」は「悔い改める」ことをする人の群です。
『人生を生きる愛の回路』があります。
その愛の回路を流していくことが出来ますように、イエスの御名でみなさんを祝福します。
今週もこのように考えて、御言葉に聞きがら歩んでまいりましょう。
祈ります。
父なる神様、あなたの御名を誉めたたえます。今日の聖日を迎えられたことを感謝いたします。ビル・ジョンソン先生が、イエス様はいつも喜んでいます。輝いています。人生に問題があるならば、神様が守って下さいます。希望を持って下さい。感謝と祝福は『深い悔い改め』が出発点である。「神に国文化は悔い改め」ことをする人の群であることを頂きました。私たちが歩む人生は、信仰と希望と愛である。このことを今週も心にこめて歩みます。「キリストなくして一瞬たりとも生きることが出来ない者である」ことも学びました。主の栄光が現されることを、今週も健康でありますように、霊性が保たれますように。主のいやしを現してください。心からのお願いです。
この祈りを主イエスキリストの御名によって祈ります。 アーメン